東京大学卒業~東京大学博士課程修了まで

更新日:

卒業後はどうしたか?
これが普通の人とは違います。
実は、卒業の時点で、というよりも、大学5年目に、一年かけて、自分は将来何になりたいのか、じっくりと考えました。
(当然のことですが、留年したら、色々と物思いに耽ります。)
これは結果論ですが、今になって振り返ってみれば、ストレートに卒業して、そのままレールに乗るよりも、その方が良かったと思います。
当時は、天下の東大ですから、就職先はいくらでもありました。
大学の、その筋に頼むと、確実に、大手に就職できます。
逆に言えば、そこを通すと、断れなくなる。(後輩に影響がありますから)
入社後も色々と束縛される。
一種のエリート売買です。
しかし、それでは、自分の未知の可能性が試せずに面白くない。
(才能のある人なら誰でも、一度は、悩むでしょう。)
そこで、大学を通さず、個人で2、3社、会社訪問もしてみました。(社会勉強です)
すると、某社なんかでは、初回に、いきなり幹部のところへ面接に連れて行く。
焦りますよ。
あたりを探っているだけなのに。
(ルアーで釣ってるのに、いきなり鰹が喰いついて来たようなもの。)
そういう場所では、大学院に行く可能性も・・・とか言って逃げました。
結局、将来の進路を本気で分析してみました。
まず、大きく分けて、大学院進学か就職か?
大学院の場合は、東大進学か、留学か、国内の別の大学か?
就職の場合は、自社か、それとも大手か?
少し、説明をしておきます。
当時、今と違って、まだ比較的に世の中がノンビリしてました。
東大の理学部数学科の学生は、半数以上が、大学院進学希望でした。
つまり、世間知らずで、学者になるのが、自分の適性であると単純に考えていたのです。
私もそうでした。
しかしながら、私には東大数学科の大学院には抵抗感がありました。
それはそうでしょう、数学科で留年してます。いわば、ハンディを負っているわけです。
卵の段階で、この私に、数学の才能が無いように見えるじゃありませんか。
それに、正直に告白すれば、あの時点で、数学の大学院を受験していても、落ちたでしょう。
(今では信じられない現象ですが、当時は、競争率が高かったのです、数学が。まだ、情報科学科はありませんでした。)
私は、そんな愚かな真似は絶対にしない主義です。
では、別の大学の数学の大学院は?
私立なら、まず、どこでも受かります。
結論を言えば、これが、眼中になし。
国内では、東大以外は大学じゃないと思っていました。
ならば、いっそのこと留学は?
この可能性について、本気で考えました。
しかし、当時、父親の体の具合が悪く、米国へ行くことには、多少、ためらいがありました。
(しかし、いざとなれば、行く気はありました。実際、その後、行ってます。)
結局、出した結論が、“大学院なら東大、しかも、数学以外”というものでした。
私にとって、極めて自然な結論です。
で、工学系なんかをあれこれ調べてみた結果、“科学史・科学基礎論”という課程が理学系の大学院にある。
“ここなら、数学科からも行けそうだ”という安易な結論を出しました。
実際、偏差値は数学よりズット低い。
(しかし、これが、とんでもない見込み違いだということが後になって判明します。競争率はたった6倍程度なのに、学科の意地、見栄、プライドがあったのだ・・・。)
一方、就職の可能性。
これも残されていました。
実は、私の実家は高知市の帯屋町という繁華街で商売をしてます。
そして、私は一人息子。しかも、父親の体の具合が悪い。
自然に、母親は、何となく、帰ってきてもらいたい風情。
少なくとも、会社勤めをするならば・・・という感じ。
しかし、一方では、せっかく東大に行ったのだから、都で一旗揚げて貰いたい趣でもある。
(“一旗”の意味が中々深い)
要は、揺れ動いているわけです。
そして、私自身も揺れ動く。
ここが思案の為所だ、お立会い!
最終的には、妥当な線として、大手に就職するのは止めて、実家を継ぐ可能性を残しました。
つまり、高知で青年実業家の道です。
(親戚筋が高知県知事をやっていたので、ある意味で、前途は洋々です。)
これも、当時の状況から言えば、自然な選択です。
というわけで、残された道は、東大の科学史・科学基礎論の大学院か実家かという二者択一です。
ここで、取り敢えず、大学院の方を調査受験してみました。
これが、夏休み辺りです。
(この時点では、まだ、どちらにするかの決定はしていませんでした。)
確か、1次試験は語学、その他。
しかたないから、やりましたよ、英語とドイツ語の復習を。
さらに、1、2カ月ぐらいかけて、勉強しました、科学史を。
1次で、多少、篩いにかけて、いよいよ2次の専門科目、つまり科学基礎論。
受けてみると、これが案外、イケテマス。
続いて、最終の面接試験。初めて会った教授連中がズラット並んでいます。
けれども、私としては、ペーパー試験に自信があったものだから、余裕です。
で、当然、合格だと思ってましたが、残念ながら、結果は×。
多分、一見の客は駄目だったのでしょう。
(あの時のペーパー試験の点数を見てみたいよ、今でも。)
お受験に失敗したので、残された道は、帰郷のみです。
(この時点ですら、別の大学の大学院のことは夢にも考えませんでした。実際、私立の大学院受験は、まだ可能だったのですが。)
しかし、ここで、土佐の“いごっそう”が顔を出します。
「たいした学科でもないのに、受験に失敗して引き下がるのは、面子が潰れる。ここは1年充電期間を作って、来年、また挑戦しよう。合格するために、今度は、科学史・科学基礎論の講義にも出ておこう」
という気分です。

閑話:

今になって振り返れば、なぜか、この時、そのような気分になったのです。
あの時の、あの気分が、私の現在、いや、未来を規定したと言っても過言ではありません。
私の性質から言えば、不合格の時点で、“こんな学科、誰が行ってやるか”と思うのが自然なのですが、どうしてあんなに科学基礎論に固執したのでしょう、あの時?
ちなみに、この大学院の5年間でやった研究は、今の言葉で言えば、論理学主体の「人工知能基礎論」にあたります。
とはいっても、やはり、そこは山口様です。決して、ダサい真似はしません。
そこで、出した結論が、
「科学基礎論学科へは聴講生で顔を出す。但し、許可は受けても、金は出さず。」
(当時、学卒用に“研究生”という制度がありましたが、学費が必要でした。)

「実家の仕事は手伝う。」
という折衷案。
早い話が二股を掛けた訳です。
実家に余裕があると、有り難いよなー、本当に。
黙って見ている、親の器も大きいし。
で、翌年、再度、科学史・科学基礎論課程を受験。
ところが、今回は2次のペーパー試験で失敗。
この失敗は、本人が認めるほどの失敗です。
自分でも、“しまった”と思ったもの。
というわけで、敢え無く不合格。
普通なら、この辺りで、止めますわな、受験を。
下手をすると、司法試験の受験生のようになる恐れすらある。
でも、何故か、止めなかった。
“来年は通るぞ”という声が聞こえるのです、どっからか。
(教授連中の“声なき励まし”じゃないですよ。誤解の無いように。)
幻聴じゃあるまいし、そんなもん、誰が信じるかと、自分自身が思いました。
しかし、なぜか、確かに、通る気がする。
気がするのです。
それ以外に、説明のしようがない。
なんじゃ、この天啓は!
じゃ、しょーがない。
もう1年だけ付き合ってやろうか、という気持ちでした、当時は。
通るんなら、何をしても通るだろうというわけで、聴講は適当にサボって、年末から春まで、イギリスに語学留学しました。
行った先は、イギリスはケンブリッジのベルスクールという語学学校。
ケンブリッジ大学を目指す英語圏以外の学生が世界中から集まっていました。
そこで、各国毎に、若者が絢を競う。
楽しかったですよ。
イタリヤの美女はどうなったかな?スウェーデンのアンデルセンは?
香港や台湾からも来てましたよ。
この時、気付きました。
「私は、外国の方が向いているな」と。
でも、さすがに、3月いっぱいで帰国。大学院の受験に備えました。
ベルスクール側は、もう1学期(3カ月)居ろと薦めてましたけど。
で、3度目の正直ということで、無事合格の運びとなった次第です。
目出度しメデタシ。
こういう風に書いてくると、苦節3年の演歌調に聞こえるかもしれませんが、私の主眼は別の所にあります。
なぜ、あの時点で、私は、あんなにも科学史・科学基礎論に固執したのでしょう。
私の自由意志だったのでしょうか?
それとも、何かが私を突き動かしたのでしょうか?
頭が良いと自他共に認める私が、2回も失敗するなんて。
しかも、受験し続けるなんて。
性格から言えば、とっくの昔に、別の道に行ってるはずなのに。
なにせ、才能に溢れているもので、それしか出来ない、どっかの専門家とは訳が違う。
この点は、万人が認めます。
では、なぜ固執したのでしょう。
その答えが、今頃になって、やっと出始めました。
天命を受けていたのです。
こう言うと、素人には変に聞こえる可能性があることは十分承知してます。
承知の上で、敢えて、言明します。
あの時の、あの行為は、天命に従ったのだと。
それ以外に、言い様がありません、当時の私の行為について合理的に説明しようとすると。
利に敏い、この私がですよ、あたら青春の真っ只中で、3年間も棒に振って、くすむなんてことは、普通には有り得ないことです。
下手すると、一生、棒に振るのですよ。
馬鹿じゃあるまいし、誰が受け続けますか。
司法試験と違って、博士とっても、就職先の保証はないのですよ。

閑話:

当時の駄洒落に、次のようなものがありました。
「博士号とは、足の裏にくっ付いた米粒のようなものだ。」
その心は
「取らないと、気持ちが悪い。しかし、取っても、食えるわけじゃない。」
この自嘲は、あながち、誇張ではありません。
現に、私は、多くの博士浪人を見てきました。
いまでも、アメリカには、多くの大陸浪人(日本人ですよ)がいます。
当時の行為の合理的説明は、“天命+実家の余裕”。
これに尽きるでしょう。
歴史に“もし”はないのですが、もし、我が家が商売をしてなかったら、また、もし、親がうるさかったら、さすがの私も、いくら天命でも、3年も受験しませんでした、多分。
かくのごとく、この時期は、わたしにとって、決して順風満帆というわけではなかったのですが、この期間に私の生涯の方向性が定まったことは間違いありません。
読者にとって、少しは、親しみが持てたのではないでしょうか?
それと同時に、何か、運命、天命のようなものを感じてもらえれば幸です。
けれども、私のエリートとしての大河ドラマ的活躍を期待していた方々には、少し、不満かもしれません。
というわけで、以後は、一気に釣瓶落とし。
科学史・科学基礎論の大学院入学後は、規定の2年で修士を修了し、そのまま博士課程へ進学しました。
そして、無事、博士課程3年間で修了単位を取得しました。
(当時は、“飛び級”が無かったのです、日本には。)
その間、実家の商売は、休み毎に帰郷して手伝いました。
博士課程の成績は、私の記憶が正しければ、確か“良”が1個だけ。後は、総て、“優”でした。
(東大に記録が残っているはずです。調査してみてください。)
実は、この“良”に文句があります。
実質は、“優”なのに!
(数学科へ出かけて行って、某助教授の数学基礎論系科目をとったのです。そして、教官自身の書いた教科書にある間違いを、訂正したレポートを出したんですが・・・。)
これで、東大の大学院リターンマッチは勝ち。
参考までに、大学院の成績を公表しておきましょうか。

東大大学院

Copyright© 山口人生.倶楽部 , 2024 All Rights Reserved Powered by STINGER.