「山口人生の学歴」 一覧

東大の大学院の後は、米国イリノイ大学の数学科博士課程に留学しました。
つまり、大学院を2回修了したわけです。
こういうことは、アメリカでは、当たり前の世渡りですが、日本では、まだ珍しい。
というわけで、この間の事情を少し詳しく述べておきます。
実は、当時の科学史・科学基礎論の博士課程では、制度上、原則として、博士が取得できませんでした。
その理由は簡単で、教授・助教授連中に博士号を持った人がいなかったからです。
(博士号を持ってない人は、博士の審査ができません。)
つまり、科学史・科学基礎論の院生で、博士を取りたい人は、どこか別の学科へいって、自分で勝手に博士号を取得するしか方法がなかったのです。
このような現象は、文学系の学科では珍しくありません。
例えば、当時の(多分、今でも)文学部哲学科の院生も博士号は取れない状態でした。
しかし、科学史・科学基礎論は理学部系の課程です。
いくら哲学の要素が強いと言っても、世間一般の人から見れば、博士課程を出て、博士号を持ってないようでは、一人前とは言い難い。
どちらかというと、落ちこぼれのようにすら見える。
当然、私も、そのように感じました。
博士号を寄越さないなんて、何か騙された気分です。
何のために、時間とエネルギーと金をかけて、博士課程を卒業したのやら。
理系では、肩身が狭いじゃないか、オイ!
但し、科学史・科学基礎論博士課程の修了者に、大学の職が無かったわけではありません。
少しの間、我慢すれば、皆、それなりの大学へ散らばって行ってました。(今はどうかな?)
博士課程3年の時点で、私も、少し我慢しようかなと考えてました、当初は。
しかし、やはり、博士号を取りたい。
取ってないと、何となく、気持ちが落ち着かない。気分が悪い。
(入学時の苦節2年をどうしてくれるんじゃ・・・。)
そんな気分の時、丁度、3年の秋でしたが、イリノイ大学の竹内という教授が東大で招待講演をしました。
イリノイの竹内といえば、当時の日本の数理論理学関係の分野ではドンです。
“ちょっと見物しておくか”ぐらいの気持ちで、講演を聴きに行きました。
風采は“頭の禿たオジサン”でしたが、結構、頭の中身が濃い。
(当然と言えば、当然か。当時、この分野の日本一じゃもの)
で、講演後、声をかけて、顔繋ぎをしておきました。
これが、私のイリノイ留学のきっかけになったのです。
つまり、年末(年始だったかな)に、竹内教授に手紙を出し、イリノイの博士課程に留学したい旨を伝えますと、二つ返事でOKになりました。

閑話:

実を言えば、大学院に在学中、立て続けに、大事件が2つ私の身に生じました。
一つは、結婚+離婚です。(早業ですねー!)
これに関しては、また別のページで触れる機会があると思います。
二つ目は、父親の死。
しかし、長い闘病生活の末でしたから、それほどショックではありませんでした。
その結果と言ってはなんですが、博士課程3年の時点では、ある意味で、身軽になっていました。
つまり、後顧の憂い無く、留学ができる状況が整っていたのです。
実際、いつでも留学できるようにと、語学学校にも通っていました。
そのため、留学を決意して、すぐにTOEFLを受け、留学可能な点数(大学によって違います)を取ることが可能だったのです。
留学に関しては、なぜか、このように、順調に事が運びます。
当時、目に見えない何かが、私を留学させるように導いた“感じ”がします。
もっとも、他人から見れば、留学分だけ回り道に見えたかもしれません。
しかし、結果論かもしれませんが、少なくとも、この私にとっては、おとなしく日本で就職を待っているよりも、アメリカに留学した方が、有利に作用しています。
というわけで、東大の博士課程に籍を置いたまま、夏にイリノイへ旅立ちました。
ここで、“大学に籍を置いたまま”という点に注目してください。
つまり、そのまま卒業せずに、日本に帰る場所を確保しておいた上で、留学したのです。
普通なら、卒業しますよね。経歴の問題もあるし。
しかし、私は、籍を残す方を選びました。
この辺りが、私の面目躍如というところです。(あなたなら、どちらを選びますか?)
これで、人とかなり違う経歴になりました。
この経歴を、どのように生かすか。(それとも、殺すか。)
それは、私の腕次第でしょう。
(将来の大河ドラマの主人公は、矢張り、一味違うわ。)
で、今、このように、目の前で、生かしています。
さて、一口に留学と言っても、様々な形態があります。
実際、当時の私には、色々な可能性が残されていました。
博士課程を出たのですから、普通なら、研究者待遇で留学する。
そして、研究成果を日本に持ち帰って、日本のどこかの大学で博士を取る。
これが、当時の私にとって、一番、自然な留学形態でしょう。
(実際、私の留学中、そうやって竹内教授の研究室に来て帰った、日本からの留学生がいました。)
しかし、私は、敢えて、イリノイ大学の博士課程に正式に籍を置きました。
いいですか、イリノイ大学の“数学科”の博士課程です。
その理由は、そこが竹内教授のいた学科だったからという以上に、数学科だったからです。
ここがポイントです。
事情が見えてきましたか、読者にも。
そうです、リベンジです。
イリノイ大学の数学科は東大の数学科より、有名教授が多い。
大学院卒業で博士を取ると、国際的には、イリノイ大の方が格上です。
(日本では、東大の方が上だと思っているようですけど・・・。)
当時、私の留学少し前には、例の“4色問題”がイリノイ大の数学科で解決されてました。
また、計算機学科の方も、すでに有名でした。(インターネットのブラウザーは、後の話ですけど。)
私が正式に博士を取るのに不足はありません。
(MITやプリンストンの方が格上ですけど、なにせ、伝手がなかった。)
というわけで、1982年の夏(アメリカの大学の新学期は9月からです。)、日本を発って、イリノイに留学したのです。
せっかくですから、イリノイに行く途中、ハワイやラスベガスを見学しました。
(イリノイはアメリカの中部で、5大湖の南にある州です。シカゴのある州と言ったほうが判りやすいかも。当時、ヨーロッパは、かなり観光してましたが、アメリカは初めてでした。)
ここは、旅の情報を伝える場ではないので、道中の旅行記は省略します。(結構、色々とありました。)
ただ、次の点を言っておきたかった。
私は、アメリカには、丸3年いましたが、その間に、旅行したのは、ナイアガラの滝見物(トロント見物も兼ねる)と冬のコロラド(ベイル)スキー旅行だけです。近場のシカゴには2回行きましたけど。
あとは、ひたすら研究していました。
一刻も早く、博士を取って帰国したかったからです。
できれば、博士取得の最短記録を作りたかった。
なにせ、私の面子が懸っています。
あれぐらい“純粋に勉強した”3年間は高校の3年間以来です。
恐らく、生涯、もう二度とない経験でしょう。
というわけで、9月から、ヨーイドンでスタートです。
まず、英語圏以外からの留学生は全員、強制的に、英語のコースに入れられる。
これを最短の1タームでクリヤ。
(この出だしで躓く可哀相な人が結構いました。)
翌年の1月からは、数学科の授業に出席です。
フーン、なんとか判るぞ、授業の英語が!
当然、卒業までに必要な単位数が要求されてますから、それを確保するべく、できるだけ多くの授業に出る。
この冬学期で、かなり稼ぎました。
(アメリカの大学は3カ月が単位の年3学期制です。)
と、同時に、最初の関門である、“資格試験”の準備。
この資格試験とは、数学科で研究する基本的能力があるかどうかを試す程度の試験です。
(日本の大学院の2次入試程度か?)
代数、解析等、4、5科目のペーパーテストで、全員、同じ試験を受けます。
それで、自然に順位が付く。
この試験を、やはり最短で受験しました。(年、何回やってたっけ?)
当然、一発で合格。
というよりも、上位でパスしました。(某所からの情報によれば、恐らく、2番です。)
次の目標は、“認証試験”。
これをパスすると、博士論文を書いても良いという正式の許可が学科から出ます。
これは口頭試問で、試験官が3人一組で、1科目を受け持ちます。
選択で4教科ほどありました。(そのうちの1教科が論文関連教科です。)
これは本人の申告制で、自信がついた時点で、いつでも受験できます。
但し、(確か)2、3回受験して、失敗したら、それでアウト、大学院よサヨウナラ、という厳しい試験です。
勿論、それまでに、相当数のしかるべき科目の単位を取っていなければなりません。
これも、できるだけ最短(確か、2年次の最初の学期)で受験しようとしましたが、竹内教授が心配して止めます。
仕方ないので、1回、ずらして、受験しました。(これも、年に2、3回試験時期があったと思います。)
で、結果は、1科目が×。
英語のせいと、多少、アガッタせいです。
(山口でも、あがるのかと、日本人の留学生仲間に冷やかされました。)
ただ、これにはフォローがあって、英語の苦手な受験生のために、落とした科目の筆記試験があります。
(確か、3科目以上落としたら、その回は問答無用で×です。)
これを、口頭試問の2週間後に受けました。
当然、パス。
結局、英語のせいということで、恥をかかずに済みました。(クワバラ、クワバラ)
この試験の後は不足単位を取って、論文を書くだけです。
単位に関しては、最終的に、Bが3個ぐらい。後は、総て、A。
全Aでなかったのが残念ですが、速度を優先させましたから、仕方ないでしょう。
それに対し、論文は結構難しい。
はっきり言って、大学院入学の時点では、日本の東大の院生の方が、実力は上でしょう。
しかし、口頭試問あたりで力が並んできて、博士論文で逆転します。(双方とも、“例外”は除きます。)
これが、大筋で誰しも認める、現実でしょう。
なにせ、大柄な連中は体力が違う。
また、博士を持っているのと持っていないのとでは、給料に格段の差がつきます。
つまり、連中は、ビジネスのつもりで、本気で勝負するのです。
気迫が違う。
逆に言うと、かなりの%、修了できない院生が出てきます。
卒業できるのは、入学時の半分以下でしょう。いつのまにか、いなくなります。
論文の内容ですが、お情けで博士を出す教授は誰もいません。
同僚の教授の目が光ってます。
下手をすると、自分の評判、ひいては、首が危ない。
結果は製本されて、図書館に残ります。誤魔化しようが無い。
で、私も気合を入れて研究しました。
御陰様で、無事、博士号(アメリカでは、Ph.D.といいます)を3年で取得した次第です。
これは、かなり早い記録です。
通常は、(日本同様)5、6年かかるのです。
しかし、残念ながら、最短記録ではありません。
当時、大阪大学の数学科大学院から留学してきていた院生が、私よりも1学期早く博士を取ったのです。
(もっとも、私は、数学ではなく、科学基礎論を5年やっていたのですけど・・・。)
それに、聞く所によると、某有名大学院では、2年で取った奴がいるそうです。
私の記録から、英語学習と資格試験受験に要した期間を引いた時間より短い。
(アメリカの学生で、学部の成績が良いと、資格試験は免除されます。)
ヤルノー。世間は広い。彼氏の睡眠時間を知りたいもんだ!
マ、私はもっと凄いけど。(徐々に判るぜ。)

閑話:

「アメリカの博士号は簡単に取れそうだ」と錯覚する人がいるかもしれないので、参考のため、次のような事実を挙げておきましょう。
当時から、アメリカの有名大学院で博士号を取(ってステップアップす)ることを目標に留学してくる日本女性は結構いました。
私の留学中のイリノイ大学にも、かなりの数の日本女性が大学院留学をしてきました。
しかしながら、実際に博士号を取得できた女性は、ほんの一握りでした。
(「稀」と言っても良いでしょう。“優秀”と思われている日本男性でも、半分程度じゃなかったかなー?)
多分、現在でも同じだと思います。
そして、イリノイ大学でのサンプルは、かなり汎用性があると思います。
誰かアメリカの有名大学全体の資料を持っていませんか?
これは女性蔑視発言ではありません。(ビジネス系HPですよ。)
あくまでも、サービス情報です。
こういう事実は、中々、表には出ません。
(何故出ないのか、判りますか?)
そういう意味で、“真に役立つ情報”だと言えるでしょう。
これを読んでいる読者の参考になれば幸いです。
このように、研究に没頭した3年間でしたが、研究ばかりでは、かえって能率が悪くなります。
また、アメリカで一人孤立して生活するのは、精神的によくない。
というわけで、週末は、日本人を呼んで、よくパーティーを開きました。
それが昂じて、イリノイ大学日本人会の会長をやったりもして。
(皆、どうしてるかな?)
けれども、とにかく、研究に全力を尽くしました。
本当、気持ちが良かった。
これが当時の、いや、今でもそう思ってますが、本音です。

閑話:

但し、いささか、疲れた。
帰国後、体の具合が少し悪くて病院に行きましたもの。
体力の消耗とストレスと肉の食べ過ぎ(1日3食がビュッフェスタイル)で肝臓の調子が悪くなっていたのです。
(今では、完全に治ってます。)
高校時代は胃に来たけど、歳をとると肝臓に来るのか。
新発見でした。
気をつけねば。
かくして、無事、1985年の夏に凱旋帰国を果たしました。
リベンジ完了。バンザイ!
さて、いよいよ、就職です。
この続きは、職歴のページに移ります。
ちなみに、博士論文は公理的集合論の分野でした。
ついでに言うと、この論文に対し、賞を出そうかという打診がありました。
但し、賞は、大学の寮連合の名前(カッパとかプサイとかいうギリシャ名です)を冠したマイナーな奴。
高校時代に賞慣れしていたので、あっさり辞退しましたが、今、振り返ってみれば、惜しい気もします。
イリノイ大学院時代の成績も公開しておきます。

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