この記事は、学歴のページからの続きです。
アメリカ留学から帰国して、元の古巣である東大の科学史・科学基礎論博士課程に復学しました。
(留学中は、休学届を出していたのです。)
で、さっそく、職探しです。
その時点で、大きく分けて、2つの道がありました。
一つは、東大で大人しくしていて、どこかの大学へ科学基礎論関係で潜り込む道。
もう一つは、アメリカ留学の経験を活かし、自分で積極的に数学関係の職を見つけてくる道です。
前者の場合は、東大に残る可能性も込みです。
逆に、後者の場合は、大学だけではなく、どこかの研究所の可能性もありです。
閑話:
博士号を持ってますから、もはや、普通のサラリーマンにはなれません。
そもそも、最初から、なる気がない。
しかし、国立や大手企業の研究所は別です。
1種のサラリーマンと言えるかもしれませんが、やはり別儀でしょう。
採用が別枠ですし、出勤はフレックスタイムでしたもの。
(1986年当時、フレックスタイム制は、少数の大手企業の研究所だけが採用し始めていました。)
研究所の移転以外、転勤もないし。
で、例によって例のごとく、オリジナルなルートを歩む山口様。
大人しく待っていれば、東大の可能性があったかもしれないのに、虫が疼きます。
(正直に言って、古巣の東大に、すぐに空きがあったわけではありません。
しかし、何年か後には、東大の可能性は十分あったと思います。)
何かが、“跳ねろ”と囁きます。
なにせ、自信満々で帰国してます。
俺抜きで社会が成り立つかという自負。
早い話が、エリートがスーパーエリートになって帰って来た気分。
というわけで、色々と可能性を探りました。
日本の大学の数学科の公募を見てみたり、
電総研に遊びに行ったり(高校の同級生やイリノイ留学で知り合いになった研究者がいました)、
企業を訪ねたり、
親の知り合いに頼んだり、と様々です。
で、最初に食いついたのがIBM。
というよりも、夏に帰国して、色々と資料を見て、(暑いから!)秋になって最初に行った会社が日本IBMの本社。
(やはり、アメリカ帰りです。)
当りを見るのが目的だから、予約も何もなし。勿論、その年の採用は終わってます。
表玄関から入って、受け付けに来社理由を告げると、その場で、いきなり、人事部に通されて、部・課長あたりと面接。
お互い、様子を探って、その場は別れました。
この時、かつての、大学5年の時の経験が、チラッと頭を掠めたのですが、今回は本質が違います。
なにせ、私が主導権を握っていて、この時点で、すでに配属先まで一意決定してます。(研究所です)
要は、お互いに、YesかNoか、それだけです。
その後、しばらくたってから、というよりも、割り合いすぐに、返事が来ました。
研究所の方に、私のアメリカでの研究内容の説明を兼ねた面接に行くようにと。
そこで、行って、説明して、研究所内を見学して、幹部連中と近くのホテルでお茶して、帰ってくる。
これで、1社は確保です。
しかし、内定で縛られるような山口様ではありません。
次のターゲットを物色します。
しかし、しかしですよ、ここが日本だという点を忘れていた。
(あの大学3年の悪夢をケロッと忘れていた・・・。)
アメリカの感覚が残っていたのです。
むこうでは、就職活動は、博士の勝手、自由です。それと同じ感覚でした。
この村社会のネットワークや、囲い込みを過小評価していた。
その結果、どうなったのか?
以下のようになりました。
次のターゲットということで、親を通じて、某衆議院議員に会いに行った。
どこか、大学や研究所関係で良い職はありませんかという挨拶回り。
秘書に会ったんですが、向こうにしたら、おぼこい鴨が来たという感じ。
そこで、うっかりと、IBMの名を出した。
こちらとしては、再度、IBMに話を持ち込まれては堪りません。
その後、IBMの反応がオカシイ。
勿論、議員の方からは、何の紹介もなし。
この現象から、逆に推測すると、政治家からIBMに何らかの連絡がいったのか?
それとも、IBMが付け馬を付けて、私の行動を探っていたのか。
いずれにせよ、これはマズイということで、以後、大っぴらな就職活動は控えました。
(さすがに、いくらなんでもね。)
閑話:
教訓、その1:実力のある人材は政治家にものを頼むな。嫉妬で邪魔をされ、まとまる話も壊れる(可能性がある)。
教訓、その2:壁に耳あり、障子に目あり。実力があると、動向が相手に筒抜けになる場合がある。
実を言うと、アメリカから帰国して、職探しを始めた頃から、私の周りに、(私にしたら)不審な人物が徘徊し始めました。
但し、1人ではありません。かなりの数が集団で連係プレーをしてます。
今流の言葉で言えば、集団ストーカー状態。
これは、アメリカ帰りのスーパースターにファンがついたのか、それとも就職関係か、それとも・・・。
日本の村社会では、何が起こるか判ったもんじゃない。
ということで、一度、近くの警察署に相談に行きました。
しかし、例によって、我々の関知するところではないとの返事。
仕方ないから、以後、自分でストカー対策を実行することにしました。
(具体的に、何をやったのかは秘密!)
その影響が、今日まで、尾を引いてます。
(しかし、警察は、やらないと言っておいて、裏でこっそり調査することもあるのですネ。マ、警察だけというわけじゃなさそうだけど・・・。)
これ、自意識過剰なんて、柔な話じゃ無いですよ。
エリートの皆さん、気をつけましょう!
で、結局、どうなったのか?
どうもなりません。
IBMとの契約書類が、いささかヤヤコシクなっただけです。(アメリカ式!)
最終的には、正社員ではなく、大学へ帰ることを念頭においた、“特別研究員”という身分で契約の運びとなりました。
この身分は、本当に“特別”でした。
1年契約で更新していくことになっていましたが、途中、こちらの都合で、いつでも止めて良いという内容です。
あの当時、他に誰も、このような身分でIBMと契約した博士はいなかったと思います。
恐らく、現在でもいないでしょう。
まして況や、日本企業においておや。
オヤオヤ。
誤解のないように、少し、説明をしておきます。
今でこそ、契約社員というのは普通になってますが、それでも、どこかの組織から派遣されるのが普通でしょう。
それに対し、あの時、私は、個人でIBMと契約したのですよ!
しかも、身分は東大に残したままです。
つまり、まだ院生なのに、(アメリカの大学の博士号をもっている御陰で)IBMの研究所と個人ベースで契約したのです。
勿論、ポスドクの奨学金や大学への研究助成費とは原理上、異なります。
金額も、マアマアだし、そもそも、全額、私の懐に入ります。
正社員と同じように、研究所に机があって、出社するのです。
アルバイトでもなければ、臨時職員でもないという極めて特殊な身分。
計算機関係なら、自分の好きな研究をしていいのです。
他人の仕事を手伝うわけでもなければ、上から仕事を命じられるわけでもない。
研究所内の誰かとプロジェクトを組む必要すらない。
私の勝手、自由、能力まかせ。
どうです、サラリーマンの皆さん。
これがスーパーエリートです。
かくして、1986年の4月から日本IBMの研究所(現在の東京基礎研究所です)に通うことになりました。
(あの当時、研究所は、“サイエンスインスティチュート”といって、千代田区三番町にありました。)
3月まで、就職活動に関し、まだ、色々と細かいことがありましたが、それらは省略します。
ただ、大学の某教授から、“出処進退はハッキリするように”という皮肉を言われたことを今でも覚えています。
なんだ、全部、ばれてるジャン。
マ、君らにエリート売買される気はないわ!
で、IBMに通い出して、当時流行だったPrologというプログラミング言語の基礎理論を研究しました。
閑話:
実を言えば、帰国直後から、4月にIBMの研究所に出入りするようになるまでに、論理型言語の基本的な勉強はしておきました。
これは、私の専門が論理だった関係と、就職絡みが主な理由です。
しかし、なぜ、Prologか?
実は、あの当時、日本が世界相手に“第五世代コンピュータ”というアドバルーンをぶち上げた直後で、マスコミ、その他の媒体で騒がれていたからです。
(当時の日本は、バブルの初期でした。威勢がよかった。)
ところで、一般的に言って、普通の数理論理学者は、プログラム言語なんぞに手を出しません。
今更、実用なんか追えるかという雰囲気。
「純粋理論が穢れる」程度に思っています。
(これこそ、数理論理屋が、計算機の世界で役に立たない理由です。心を入れ替えないと・・・。)
けれども、この私は、何となく、Prologの基礎理論に引かれた。
それだけ、頭が柔らかかったのです。
(しかし、あなたならやりますか?いい歳をした博士が、今更、自分の専門以外の分野を。)
勿論、研究を始めるまでは、海の物とも、山の物とも判りません。
でも、何故か、始める前から、気になってしょうがない。
そもそも、帰国後、なぜ、真っ先に、IBMに足が向いたのか?
素直に、大学で、数学か科学基礎論関係を探すのが普通です。
結論を言えばですね、ここで、再び、あの『天命』が顔を出すわけです。
今、振り返ってみれば、そうとしか言いようが無い。
何かが、私に、計算機関係をやるように導いた。
これです。これを言いたかった。
IBMで2カ月ぐらい研究したところで、当時のPrologの基礎理論から見れば、画期的な新理論を社内で発表しました。
(この時点では、アイデアだけです。論文の形に纏めるのに、3年かかりました。)
これは、言わば、計算機の世界の住人である論理型言語と数学の世界の住人である公理的集合論のブール値モデルとを合体・融合(フュージョン)させた理論でした。
これを社内発表した直後、なぜか、突然、日本電気(NEC)からヘッドハンティングの電話がかかって来ました。
研究所の所長から、直接、うちの研究所へ来ないかというお誘いの電話です。
今すぐにでもという話。
これには伏線があって、就職活動中に、親の伝手で、NECの子会社の社長と会っていたのが表向きの理由です。
しかして、その実態は、・・・?
そう、勿論、私の研究の効果です。
情報技術の世界は、本当に、情報の通信速度が早い。(上手いエスプリ)
どこから、どう伝わったのか、ライバル会社が、ちゃんと、聞き付けてる。
(勿論、私はバラしてません。)
多分、アメリカのその筋も知っていたでしょう、私の発表直後から。
これは何かありそうなアイデアだなと。
で、最初は、IBMとの契約が1年あるからと言葉を濁していたのですが、なぜか、IBMの研究所内の空気が変わっている。
これも、私の研究結果の所為でしょう。
つまり、研究者の嫉妬ですな。
しかし、中には、私の仕事に興味を抱いた研究者もいて、その後、しばらく、私の結果と関連した研究を続けていました。
彼には、研究者として、観る眼があったのでしょう、キット。
(それが証拠に、現在、彼は、東大に移っています。)
で、1週間ぐらい考えました。
このまま1年、IBMにいるか。
(IBMの上司は引き止めましたよ。
研究所長にも、ヘッドハンティングの件で面接したし。
隠さない処が、流石、山口様です。
どうです、この自信。)
それとも、すぐにNECに移るか。
(一応、NECの研究所にも面接に行きました。)
大学はどうするか?
(丁度、数理論理学関係の研究会が開かれて、私も行ったのですが、会議後の懇親会で、名古屋工大あたりの話がチラっと出ました。
意味深なタイミングです。
しかし、これは、毛バリかどうかの判定がつかず、食い付きませんでした。
多分、本物の餌だったと思いますけど。)
東大の籍は?
等々・・・。
普通なら、そのまま1年間はIBMにいます。
で、その後、改めて、行き先を決定すればよい。
(その時点で、NECは1年待つと言ってました。)
東大の科学基礎論課程の教授も、何となく、それを望むふう。
(大学関係も、数理論理系と科学基礎論系で一本化してないことが観て取れます。)
あまりにも短期で移るのは、履歴上も変に見える恐れ、これあり。
しかし、そこは山口様です。
それまでの経歴も、いささか常識を外れています。
ならば、ついでに、この際、も一つ外して、箔を付けとこうか・・・ってなもんで、NECに移ることにしました。
これが、IBMに行きだして、3カ月目です。
本当に実力のある人物は、凄い世渡りをするもんだ!