NEC時代

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というわけで、1986年の7月から、NECの中央研究所に移りました。
詳しく言うと、当時の“C&Cシステム研究所”。
(今は、組織がどうなっているのか知りません。
ちなみに、中央研究所は、いくつかの研究所の集まりです。)
場所は、川崎市の宮崎台。
(東急の田園都市線です。
二子玉川園と多摩プラザの中間ぐらい。)
最初は本郷のマンションから通っていましたが、通勤が大変なので、近くに引っ越しました。
(高知から上京して以来、都内から引っ越すのは初めてでした、留学以外は。)
ところで、信じられないかもしれませんが、この時点で、まだ、東大の大学院に籍がありました。
そのまま、NECに入社したのです。
身分は、嘱託。
(ヘッドハンティングしたのなら、それなりの呼び名をつけろよナー。
定年後の再就職みたいに聞こえるじゃないか、世間には。
IBMほど融通が利かないわけか、日本企業は。)
最初、3カ月ぐらい、様子見です。
NECも、またすぐに、辞めるかもしれない。
実際、大学に移る可能性もありました。
事実、私の周りでは、そういう臭いがしていたし・・・。
(これじゃ、何のために移籍したのかと思う人もいるでしょう。
しかし、新たな引き抜きが来れば、どうなるか判りません。
それが実力社会というもの。)
けれども、流石に、というか、やはりというか、すぐには声が掛からなかった。
(日本です。日本。)
で、少し腰を落ち着けて研究ということで、正社員になることにしました。
これが、確か、秋。10月か11月。
身分は、主任研究員。
この時、やっと東大の籍を抜いたのです。
(これで、東大も肩の荷が下りたことでしょう。
しかして、その実態は・・・?
大物を逃したのじゃ!)
この時期に、東大の大学院の籍を抜くような真似をした人物は、(病気か犯罪絡み以外は、)私が最初で最後かも・・・。
(当時は、帰国子女の扱いとか、秋の卒業なんて無い時代ですよ。
総て、一律に、処理する時代です。)

閑話:

以上が、私の大学院生活が長かった真相です。
詳しい履歴書では、大学院の籍は、就職した時期とオーバーラップしている。
これは、書き間違いではありません。
間違っても、
「能力の無い所為で、単位が取れなかったのだ」
などという妄想は抱かないように!
その正反対です。
平均的な研究者と比べると、能力が有り余っていたのです。
また、これで、私が履歴の解説を長々と書いてきた理由の一部が飲み込めたと思います。
歴史に真相を残しておかねば。
さて、NECでの研究生活ですが、これは、IBM時代と、それほど差はありません。
勝手気侭。自由放任。押し付け仕事、一切無し。
強いて差を挙げれば、IBM時代は定時出社+定時退社してました。
残業が付かなかったからです。
一方、NECでは、フレックス制が導入されたばかりで、十分に利用しました。
しかも、残業が付いたので、朝は10時過ぎに出社、夜は8時過ぎに退社が普通でした。
(研究所で昼、夜の2食を食べてました。
夜は夜食ではなく、ちゃんと食堂が開くのです。
そういうシステムになってました。)
仕事の内容ですが、他の主任研究員は、それなりに、会社の仕事、もしくは、外部と組んだプロジェクトの仕事をやらされてました。
(私の周りでは、ICOT関係のプロジェクトが多かった。
これも御時勢だったのでしょう。)
その合間に、自分の研究をするという生活。
(主任の上の課長になると、研究よりも、課内調整が主な仕事になります。)
勿論、自分の研究が社内で認められれば、正式のプロジェクトになります。
しかし、自分の研究だけを勝手にやるという研究者は少ない。
(皆無ではありませんが、特別待遇です。)
その意味で、私の研究は、最初から“特別待遇”でした。
普通、主任には部下が付くのですが、私の場合は部下もなし。
(私に人を使う能力がないせいじゃありませんよ。
自分の研究に没頭できる態勢を組織側が整えたわけです。)
他人の助けは不必要というか、そもそも、他人が手助けできる程度の甘い理論ではありません、当時の私の研究は。
で、具体的に言って、どの程度の特別待遇の研究生活か?
想像が付きますか?
(大学じゃありません。企業の研究所ですよ。)
以下の程度です。
まず、課長の机の前に私の机がありましたが、大部屋なので、殆ど、そこには居ませんでした。
(会社側に、個室をクレと要求しましたが、“主席研究員か主幹研究員じゃなければ駄目”ということで引き下がりました。
年齢が足り無かったらしい。
ケチ!)
どうしたかというと、毎日、出社すると、机に行き先のプレートを残して、すぐに図書室に直行しました。
(研究所内のすぐ近くに、図書室がありました。)
そこで、一日中、論文を書く毎日。
その論文とは、例の、IBMで発表したアイデアの理論化です。
これをNECにいた、丸3年続けました。
それだけ中身の濃いアイデアだったわけです。

閑話:

実は、この理論は、(当時から、一部の論理型言語の理論屋の間で、騒がれていたのですが、)より広い領域である、“情報・通信・制御”(より一般的に言えば、“工学”、より狭く言えば、“人工知能”)の世界における、特殊相対性理論にあたります。
その詳しい内容について、ここで解説はしませんが、最終的にはゲーデルの理論(不完全性定理)を越える理論になります。
ゲーデルという人は、数理論理学の世界における、ヒーローで天才です。
これは万人が認めています。
ゲーデルの不完全性定理は純粋数学よりも、むしろ、情報科学の分野で、影響が大きい結果で、未来永劫、その呪縛から逃れることは出来ないと思われていました。
(この私が、登場するまでは。)
そのゲーデルを越えるのですから、この私は、客観的に言って、もっと天才ということになります。
信じる信じないは、皆さんの自由です。
「自分で言う天才は眉唾だ。
そんな天才なら、世間で騒がれているはずだ・・・」
と思うでしょう。
しかし、それは、小学生の“偉人史観”です。
皆さんは知ってますか?
例えば、ナイロンの発明者は精神病にされて、生前は日の目を見なかったという事実を。
逆に、気が強くて、自己主張し過ぎると、ガリレオのように裁判沙汰になる。
しかし、一方で、上手く立ち回って、出世する天才も実在します。
例えば、ニュートン、アインシュタイン。
実は、ガリレオも、世渡りが上手な方でした。
(宗教裁判といっても、結果は、“貴族の家にお預け”の刑。
おまけに、すぐ、自宅に帰ってます。
「それでも、人類は嫉妬する」のだ。)
要は、自分の才能を自覚し、大衆の嫉妬に気付けば、あとは、その人物の器量次第でしょう。
(孫子みたい。)
もっとも、中には、自分のことを天才だと錯覚する凡才もいますが・・・。
(というよりも、現実には、そのケースが殆どでしょう。
だからこそ、「天才だ」と言われて、「はいそうですか」と納得する人はいないのです。)
ここでは、科学者の例だけを取り上げましたが、どの分野でも、似たようなものだと思います。
まとめると、次の結論は、ほぼ正確な帰結と言えるでしょう。
自分のことを天才だと人前で公言する人間には2種類あります。
本物の天才とオカシイ人。
(生前、自分のことを「天才」だと吹聴していた天才は、歴史上、枚挙にいとまがありません。)
この辺りで、なぜ私が、「天命」などという、大袈裟な用語を使用してきたか、その真の理由が納得できたことと思います。
私の結果は、歴史に残るからです。
是非、調査してみてください。
ついでに白状すれば、この履歴も、歴史を意識して書いています。
(嘘は書けないよナー。)
さらに言えば、こうやって、上手に世渡りをしています。
私の専門分野で、私を知らない研究者は、モグリと言われています。
最近、世間でも、結構、騒がれ始めました。
当社を利用して、やがて、大金を稼ぐ予定です。
さて、話を元に戻しましょう。
論文書きに疲れると、時々、自分の部屋に帰って、息抜きをする。
(普通は、仕事場で息抜きはしないものですが、私の場合、図書室の方が、仕事場の感じでした。)
秘書をからかったり、研究所内を散歩したり。
時には、庭に出て、芝生の上で横になる。
また、たまには、図書室にあった、プレジデントという月刊誌を読んでリラックス。
(結構、面白かった、あの雑誌は。
経営者の自己満足用記事が満載です。)
会社員の皆さんは判ると思いますが、テレビドラマじゃあるまいし、こんな真似が出来る雰囲気じゃありませんよね、会社とは。
しかし、私はやりました、平気で。
但し、時々ですよ、時々。
勿論、仕事中、庭で横になるような度胸のある研究者は誰もいません、私以外には。
広々として、良い気分でした。
(さすがに、来客には見えないように気を使いました。)
というわけで、NECにいた3年(足らず)で、アイデアを論文の形にまとめたのです。
(後に、神奈川大学に移ってから、これらの論文をICOTのテクニカルペーパーの形で公表しました。)
これが世紀の大論文とは、神ならぬ身のNECには判るはずもなし。
ICOTですら、理解出来てなかった。
面白いアイデアではあるが、どの程度のインパクトがあるのか判らなかったのです。
(どの程度って、歴史に残る程度ですよ。
あれから、ズット宣伝をしてます。
その所為で、徐々に浸透し始めた、今日、この頃です。
長かったナー。)
現在でも、内容を理解できるプロの研究者数は、世界全体で3桁止まりでしょう。
忘れもしません。
NECに移った当初、所長から、
「君は地位がほしいのか、それとも、名誉がほしいのか」
と尋ねられたことがあります。
その時の、私の答えは、・・・、
「両方です」
というものでした。
今でも、そう思っています。
(私は、出世競争に無縁な“世捨て天才”になる気はありません。)
目先のセセコマシイことに拘泥していると大局を観誤る。
これは致命的な失敗に繋がります。
この意味で、周囲の目を気にせず、平気で論文書きの毎日を続けたのです。
すごい自信。
自分自身に論文の価値が判っていたからこそ、こういう真似ができました。
普通の研究者には、とても、こういう真似は出来ません。
第一、周りが、それを許さないでしょう。
しかし、私には、それが許されたのです。
つまり、“どの程度の内容か自分達に確認は出来ないが、何か凄いらしい”という雰囲気が当時あったのでしょう。
(相も変わらず、社外では、集団ストーカー状態が続いていました。
これは何を意味するのか?)
ただ、このような好意的な雰囲気も、最終的には壊れます。
その理由は、またしても、私に外部からヘッドハンティングが掛かったからです。
つまり、社内に、一人ぐらい、“天才っぽい”のがいるのは、周りの刺激になって良しとするのでしょうが、その人物が、やがて、社外に去るとなると、空気が変わってきます。
(それでも、私は、平気で論文書いてましたけど。
つまり、組織の上層部の意思と職場の同僚の嫉妬は、しばしば対立するのです。)
“サラリーマンは日本全体”とか、“人類”とかいう器で物事を考えることが出来無いのです。
あくまでも、会社が単位です。
というよりも、自分の出世が単位です。
(当たり前か・・・。)
“潰しが利くかどうか”とか、そういう観点で物事を見ます。
これじゃ、真の天才を理解できません。
もっとも、移った先の神奈川大学も、同程度以下の反応ですから、NECばかりを非難することはできません。
(神奈川大学の方が環境は悪かったのです、正直言って。
多分、どこへ行っても、同様でしょうけど、悪貨は良貨を駆逐します。
しかし、本人は、上述の閑話のように、世間の現象を悟った上で利用しています。)
というわけで、NECに移って、2年目(結構、早いな)、神奈川大学から打診がありました。
この打診が、また、一風、変っていました。
最初は、神奈川大学の本部の某教授(学長補佐だったかな)の娘との見合いの話が来たのです。
軽い気持ちということだったので、軽い乗りで見合いにいった。
(ちなみに、帰国後、この前後の時期は、かなりの数の見合いをこなしました。
どのくらいって、一々覚えていないくらいです。)
相手方は、当の教授が来ている。
その場の話題は、世間話になりますが、その世間話の中に、神奈川大学へという打診めいたものがありました。
丁度、平塚に新キャンパスを建設中ということ。
勿論、その場では、感触だけです。表向きは、あくまでも、見合い。
こちらとしては、迷います。
これは見合いなのか、それとも、ヘッドハンティングなのか?
どちらが主か?
(相手方にしたら、両方OKなら万歳なのでしょうけど。)
そこで、仕方ないから、確認のため、相手の家に遊びに行きました。
この時点では、まだ、見合いの体裁をとっています。
そこで出た話題は、やはり、神奈川大学の新キャンパスのことでした。
フーン、あわよくば、ヘッドハンティングか。
しかし、こちらはNECの中央研究所の主任研究員です。
それほど焦っているわけじゃない。
しかも、相手は、それほどの大学じゃない。
で、少し、探りを入れます。
最大のポイントは、何年か後には、大学を移籍しても良いかどうかという点。
(当時、大論文を書いていた最中です。当然、野心満々です、こちらは。)
この点を、面と向かって、ハッキリと尋ねました。
すると、OKとの返事。
こうなると、こちらにとって、後は、秤に掛けるだけです、NECと神奈川大学を。
いずれにせよ、当座のポストという感覚。
あくまでも腰掛。
ただ、その時点では、新キャンパスは、まだ出来てない。
平成1年(1989年)からの開校ということで、1年以上も先の話です。
つなぎに、明治学院という名前も出ました。
(内心、
「フーン、できるだけ早く、大学に移ってほしいのか。
多分、私のことは調査済みなのだろう・・・」
てなもんです。)
この時点での、最大の関心は、移籍後の身分です。
取り敢えず、専任講師という提示でした。
日本で、教えた経歴が無いからというのが、その理由。
(アメリカでは、TAをやってましたが。)
3年後、助教授になるという含みです。
その場は、相手側の娘と、辺りを散歩して、引き揚げました。
この時点で、見合いは、完全に、添え物状態。
教授個人の意思だけじゃないことが判ったからです。
逆に言うと、この移籍話はマジだということが判りました。
で、当方としては、2つの決定をしなければなりません。
見合いの返事と移籍の返事。
まず、見合いについては、もう一度、2人きりで会うことにしました。
その結果は×。
親に何と言われていたのか知りませんが、本人が気乗りしない様子。
(娘にしたら不満だったでしょう。
自分は餌か・・・ってな感覚。)
こちらも、女の機嫌を取る気は無し。
移籍に関しては、それほど単純ではありません。
この時点で、断る気なら、それで、ハイ、さようならです。
しかし、もう少し様子を見ることにしました。
なにせ、時間的余裕があります。
(見合いとセットなら、向こうが断るはずでしょう。)
というわけで、しばらく経つと、神奈川大学側から、新キャンパスで理学部長になる教授、その他の候補者が集まる会議かパーティーか何かの招待がありました。
(詳しい経緯は、もう忘れました。)
とにかく、探りを入れるため、その集まりに顔を出した。
恐らく、この辺りからです、NEC側にバレたのは。
(それまでも、付け馬は付いていたでしょうけど、見合いかどうか判定できない状態でした。
まさか、最初から、神奈川大学側がNEC側と取引していたとは考えられません。)
集まりは平日の昼間や夕方でした。
(その後も、何回か集合しました。)
NECから昼間、外出するには、届がいる。
フレックスタイム制だから、早退すればOKですが、私は、(神奈川大学主催の)会議出席ということで許可を取りました。
そうすると、仕事になるんです、これが。
実は、当時、ICOTに委員で定期的に出席していたもので、外出の機会は結構あった。
その他にも、学会とか、会議とか。
研究者なら、これらは、原理上、総て出席できます。
誰も、文句を言わないし、言えない。
課長に届ければ良い。
それで、仕事時間になります。
その制度を利用しました、神奈川大学の集まりにも。
そういう会議っぽい体裁を取っていたのです、神奈川大学側は。
そうやって、囲い込む。
私には、付け馬が付いていますから、早退して、隠れて出席しても、遅かれ早かれ、NECにはバレることが判っていました。
なにせ、1年以上もあります。
この世界の情報の速さは、IBM時代に実感しています。
隠しようがない。
ならば、堂々とバラそうという戦略です。

閑話:

当時の付け馬は、NEC関係だったのか、それとも、また別の組織だったのか、それとも、本物のストカー集団だったのか?
未だに謎です。
警察関係の可能性すらあった。
(ほら、前に一度、駆け込んだでしょう、警察署に。)
ついでに言うと、現在でも、未だに、付け馬が付いてます。
スーパーエリートに対する追っかけだけじゃない。
ビジネス絡みか?
それとも・・・。
で、その結果、お決まりの社内嫉妬。
しとしとピッチャン、嫉妬ぴっちゃん。
早く出て行けっていう雰囲気。
中々、風情がありますナー。
そうこうしている内に、3年目の秋。
神奈川大学側は、更に、囲い込みにかかる。
新キャンパスの目ぼしい候補者を、神奈川大学本部の非常勤として雇うことになった。
当然、私も非常勤になりました。
NECの主任研究員の身分はそのままで。
つまり、給料の2重取り。
(移籍仕度金か?)
但し、この間に、大学院で貰っていた奨学金の返還猶予期限が切れた。
その結果、奨学金を返還しなくちゃならない羽目になりました。
(結構、金額が大きい。)
もう少し、上手に事務的な手続きをしていれば、戻さなくても済んだのに・・・。
(卒業後、一定期間内に大学の先生になれば、返還をしなくてもいいのです。
覚えていますか、私が大学院の籍を長く残していた事実を。)
今でも、これが、祟っています。
これ、本当の話。
というわけで、平成1年度(1989年)の4月から、神奈川大学の平塚キャンパスに勤務することになりました。
理学部の情報科学科で、専任講師です。

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