2025年7月28日 (神ブランド)
前回、提示した∨シェーマに関する続きです。
斬新なので、何の役に立つか分からないカモ。
今回から、暫くは、∨シェーマの真価についての蘊蓄を。
何故、史上初と豪語するのか納得させるために。
まずは理論の観点から、基本の論理演算∨について。
古典論理でカバーできない領域に攻め込みます。
今回は曖昧性の増す常識世界に入ります。
つまり、言葉を扱う
「常式」
の世界です。
(一応、言葉も記号化されていますから。)
それを無理矢理、枠内近似して計算の俎上に載せたのがAI。
∨シェーマの活躍が期待できるはずです。
真理値が実数値系なんぞ曲者ですよ。
その証拠がファジィ推論における曖昧さの爆発。
だから、マトモな議論として
「最終的なメタメタ・・・でYesかNoの意思決定」
するにはB‐embedするしかないの。
つまり、状況依存で真理値近似する。
この導入部から、今回の本論に。
「証明場 vs 計算場」
に対する分かり易い具体例から始めましょうか。
AIの中に自然言語処理という分野がありますね。
類推ニューロの方じゃなく、構文解析の方に注目すると。
大雑把な文法があって計算してますよ。
しかし、出てきた結果が証明されたとは誰も言わない。
一方、形式言語学というのがあって。
文脈自由文法なんかの結果は証明されたと言ってる。
この相違は?
「メタ vs オブジェクト」
の差です。
背景のセマンティクスが干渉するかどうか。
こういう本質が理解できてないわけだ。
アアそれなのに、それなのに(^^♪
TMベースで話を始めておいて。
メタTMで証明した気分になるから駄目だと言ってるの。
しかし、メタもオブジェクトにコードできます。
この混同を、どう快刀乱麻するか?
馬化でも分かる区別基準を挙げておくと。
結局は、集合論に乗るかどうかです。
これこそが集合論の根源的な御利益。
これなくして、集合論の価値は測れないし。
これがあるから、集合論が証明場の土台になるのです。
それでも、古代ギリシャのアリストテレスまで遡れば。
集合論よりも基礎の論理というものが提唱され。
そこで三段論法なんて採用して。
正しさ保存できると主張していましたね。
彼が(哲学における)三段論法で使う命題は
「アリストテレスは馬化だ。
馬化は恥をかく。
∴アリストテレスは恥をかく。」
こういうレベルでした。
この場合の具体例
「馬化だ」
や
「恥をかく」
という述語は言葉ベースなので漠然として曖昧です。
それでも、三段論法が論理的に正しいと主張できる根拠は?
それはね、セマンティクスとは無縁な推論に則っているからです。
馬化(アリストテレス)
という命題と
(任意のxに対し)(馬化(x)⇒恥をかく(x))
というルールを設定し。
結果として、
恥をかく(アリストテレス)
を得るわけです。
つまり、形式的に
B(a)⋀(∀x)(B(x)→H(x))→H(a)
を論理的に正しいと認めたに過ぎません。
馬化(x)とか恥(x)とかの内容は、どうでも良いのよ。
これは述語論理の範囲ですが、もう少し、噛み砕けば
B(a)⋀(B(a)→H(a))→H(a)
という命題論理のtautologyになります。
これが形式論理学。
それに対し、数学なんかの公理体系の場合。
前提として公理を採用して、論理的演繹で推論していきます。
よって、大事なのは前提としての公理。
この前提が正しくないと、演繹推論結果も正しくならないわけで。
上の哲学の場合、前提は
馬化(アリストテレス)
馬化(x)⇒恥(x)
この両方とも曖昧で正しいとは言えないでしょう。
だから、結論の恥(アリストテレス)も正しいと主張できないの。
判ったかな、最初に建てる公理の重要性が。
論理的推論(演繹)は正しいのですが。
tautologyの正しさだけでは数学にならないということ。
保証したいのは、推論結果の恥(アリストテレス)の正しさ。
よって、公理の正しさが大事。
そして、数学公理の正しさの最も大事な土台が集合論なんですよ。
マトモで正当な集合しか採用しては駄目なの。
この基本思想に則れば。
名詞や動詞はマトモな集合ではない。
何故、マトモな集合じゃないのか把握できているかな?
例えば、動詞という概念の漠然として定義見て御覧よ。
こんなもの、
「マトモな集合」
として採用できませんよ。
上の馬化(x)や恥(x)も同類。
しかし、机や椅子ならヒルベルトが許容したのでは?
しましたね。
だから駄目になったのです、彼の夢は。
計算に還元しようという考えが無理なんですよ。
分かり易く言えば。
ZFで集合として定義して御覧、机を。
できないでしょう。
個体定数として導入すれば良いと考えたのがヒルベルトですが。
その個体定数を空集合から{x|ψ(x)}で構成できるかどうかを問うているの。
「集合Xの名前を“机”にできるだろう。」
とか言い出す可能性がありますが。
名前付けは自由なので、命名できますね。
しかし、本来の自然言語における
「机」
という名前にはそれなりのセマンティクスがあり。
集合X、例えば、{0,1,2}に対する勝手な命名では
「自然数を含む言語モデル」
の真偽に反します。
つまり、自然言語処理の理論体系は集合論に乗らないの。
ちなみに、動詞は名前なのでtermですが。
述語にも出来るのでは?
つまり、集合として
走る∈動詞
が成立するので、
動詞(走る)
で述語になります。
もっと微妙なのが、私がオリジナル作成した用語
馬化
上では、馬化を述語として扱いましたが。
馬化は性質として名詞でもある。
猿の様々な特徴を
アホ、馬化、脳タリン、P脳、・・・
と列記すれば。
猿(馬化)、猿(P脳)、・・・
も成立します。
猿が述語化している。
集合論でも、同じ集合Yに対し、
a∈Y ⋀ Y∈X
なんていくらでも成立しますよ。
但し、自然言語は曖昧だから
馬化(猿)⋀ 猿(馬化)
が成立するのですが。
集合論で
X∈Y ⋀ Y∈X
まで許容すると循環が発生します。
演繹演算ベースの数学ではそこまでは許可したくない。
(当初のZFでは許可していたのですよ。
というか、今でも、循環を許容する集合論があります。)
そこで、フォン・ノイマンが提案したのが
「AF(基礎の公理)」
です。
今では、ZFというと、AFを組み入れています。
ただ、この程度の制限では集合論の矛盾は回避できないの。
ここから’法経由で重層構造の問題が起き。
矛盾に至るとは、猿には思いも及ばなかった模様。
実際、20世紀初頭の天才(天使)が活躍していた時代以降。
100年間に渡り
「ZFは無矛盾」
と想定されてきたのです。
それを打ち破ったのが神の私。
これが人類の歴史です。
神と天使では格が違うの。
ちなみに、循環許容するAFA集合論も。
ZFと同程度に矛盾してますよ。
私のZF矛盾証明の系として簡単に証明できます。
いずれにせよ、無視できないのが、公理体系の無矛盾性。
これだけは、どのモデルで、どう解釈しても絶対に死守しないと。
結論の正しさは、いかなる意味においても保証できません。
こういう論理のイロハ以前の共通認識が獲得できてない猿が地球に多く棲息しています。
哲学界だけじゃなく、数学界にも、物理界にも、計算界にも。
まして況や、経済界をや。
∴神の価値が把握できないわけだ。
だからこそ、連中は猿なんです。
本質の価値が判らない猿は人類の邪魔です。
トランプ因子で苦しみ、当初は、皆、あれほど反抗していたのに。
例えば、メープルはアメリに抵抗するのを止めたなあ。
ロッパは、どうじゃ?
日本猿は15%で手打ち式か。
席を変われば当代なのに・・・。
これで393町目。