御覧のように、いわゆる“エリートコース”を歩んで来ました。
高校時代には、旺文社の全国模試で表彰を受けるのが当たり前の感覚。
国立理系で、“2等”、“3等”、“4等”、“5等”、“等外”、と制覇しました。
(残念ながら、“1等”は取り損ねました。こういう記録は、履歴の賞罰の欄に書けるのかな?)
高3の時には、全国模試の数学で“常に100点満点"といった偉業を成し遂げたりして・・・。
ついでに、学内の中間・期末試験でも、数学は1度だけ98点、後は全部100点でした。
(全部、記録に残ってると思いますよ。)
あの当時、日本が数学の国際オリンピック高校の部に出場していたら、多分、私が代表で出場していたでしょう。
(“Z会”って知ってます?あれで、ほとんど満点でした、数学は。)
数学だけではなく、他の教科も結構できました。
一度、学内の中間か期末の試験で“全教科同時にクラスで1番”を狙ったことがあります。
(かなり、準備が大変でしたけど、これも“青春の記念”と思って頑張ってみました。)
結果は、1科目だけ2番、他は総て1番でした。
(どうして判るのかって?先生に“やる”と公言して挑戦したのです。)
学内の模試(年、4-5回)でも、2年生の時は、総合で常に1番、3年生の時は、総合で1番と2番が半々でした。
(当時の同級生は、今でも、この記録を覚えているでしょう、キット。)
このころまでは、このように、サラブレッドとしての勉強が無邪気にできたのです。
つまり、レールに乗った競争が世界の総てでした。
というわけで、東大の理Ⅰを受けたんですが、これはもう、受ける前から、自信満々で、合格は“常識”という状態。
(理Ⅲは、すでに当時から、目先の見える受験生は受けませんでした。将来、医者が余るに決まっていたからです。)
滑り止めに早稲田を受験したのですが、合格発表は見に行きませんでした。
見なくても、合格していることは判っていたので。
そして、ナメキッタ東大の2次の受験日。
これが、大風邪で得意の数学がド壷。
(実は、3年生の後半あたりから、かなり体力を消耗してました。学内の模試でも、時々、ポカをやったりして。)
多少焦ったけど、無事、現役合格。
マ、実力が桁違いに違うと、少々の失敗は問題になりませんわ、ガッハッハ。
もっとも、両親はかなり心配していた模様で、合格発表の掲示板を一緒に見に行った母親の顔は印象的でした。
(記念旅行のつもりだったのでしょう、多分。高知から、わざわざ見に来たもの。)
ついでに言うと、この時の写真が、某雑誌に掲載されていました。
(“東大の合格発表を喜んで見る親子”といったような風情でした。)
そういえば、掲示板を眺めていた時、誰かが、“掲示板に指をさして”などと勝手な注文をつけてましたっけ。
東大では、理I内で、さらに2年間競争をして、数学科へ進学。
あの当時、成績順に上から、理学部の“数学”か“物理”へ進学したものです。
たしか、全科目平均75点程度が合格最低ラインだったと思います。
(今なら、“情報”かな、トップは。東大にいないので、現状は知りません。)
しかし、本郷へ行くと、駒場とは雰囲気が違う。
どう違うかといえば、当時、教授連中は、学生に対し、“構える”ところがありました。
(我々の受験した年の前年は、東大受験が無かったのですよ。覚えてますか、歴史を。あの安田講堂の紛争。)
色々あったのでしょう、多分。
しかし、我々新入生にとっては、本当に迷惑。
第一、紛争の後遺症で、ストなんかがあって、ろくすっぽ授業をしないのだから話になりません。
授業中にも、全学連が教室までアジりに来る。
教室の外では、セクトがマイクを使って、大声でガナリたてる。
そもそも、何、あの“立て看板”は。
内容以前の問題。
どんな風に脳味噌が壊れると、あれほど下品な物体が作れるのか?
今になって振り返れば、本郷の雰囲気を壊すのが真の狙いだったとしか思えません。
その結果、この純情な神童としてはですね、環境に汚染されて、1年留年しました。
(本当に、この1年が、後の経歴にどれほど悪影響を及ぼしたことか。もっとも、実力が図抜けているので、最終的には、ハッピーエンドですけど。)
その直接の原因を、ここでバラします。
これは言い訳ではなく、正直な話です。
忘れもしない、3年に進学した最初の学期末試験前日、“アカ系”が私の下宿の隣の部屋で、徹夜で騒いだのが直接の原因です。
(全学連系だったのか、民青系だったのか、今でもわかりません。なお、今時の学生には、それほど馴染みがないかもしれませんが、当時は、“下宿”が一般的でした。)
連中の話の内容は、組合運動がドウタラコウタラというもの。
本当、うるさくって寝れたもんじゃない。
最後には、隣の大家が怒鳴り込んで一件落着。
(当時、私もウブで文句が言えませんでした。相手は大勢だし。)
しかし、時すでに遅く、当方としては、神経が高ぶって、結局、一睡もできず。
数学はレポートじゃなくって、1発勝負の試験をやるのです、学期末に。
授業の出席点なんぞはありません。
試験中、眠くって出来なければ、それでオシマイ、はいそれまでよ。
あの日は何科目やったっけ?確か、3年次の必修を落としたのです。
(追試があったという記憶がありません。)
そのせいで、4年の卒研がとれない。
仕方なく、急いで、マンションに引っ越して、1年後にパスしました。
(今度は、失敗の無いように、文京区の西片という環境の良い場所でした。ちなみに、元の下宿は本郷6丁目で東大の斜め前。)
やはり、生活環境は大切ですね。
閑話:
どうして、あの晩に限ってアカ系が騒いだのか、当時は、まったくわかりませんでした。
単なる偶然と思い込んで、諦めていましたから。
しかし、今になって思えばですね、当時、(というか、多分、高校時代から、いや、ひょっとすると、もっと子供の時から)すでに眼を付けられていたのです、世間(の一部)に。
連中にしたら、私の調子が良すぎるので、“このあたりで少し焼きを入れておこう”程度の反応だったのでしょう。
(大衆の嫉妬は、どの時代も同様です。)
高校までは、学則により坊主頭だったので、世間の反応もそれなりのものだったのです。
(信じられます?坊主頭の進学校ですよ。しかも、中高一貫教育で6年間の丸坊主。当時はこんなことが許された時代なのです。さすがに今は、母校でも髪を伸ばしてますけど。)
もっとも、裏情報を流せばですね、大学の5年間で、勉強ばかりしていたわけでもありません。
少しは、(というか、そこそこ程度は)遊びました。
そうでなきゃ、この私がですよ、寝不足で失敗したぐらいで、試験に落ちるわけがないじゃないですか。
現に、東大の入試では合格してる。
(もっとも、あれは、平均点で通ったんだ。)
遊びの内容は、お約束の、都会風な“オシャレ”と“女遊び”。
間違っても、クラブ活動なんかはやりません。特定のサークルにすら属さない。
あくまでも、自由な立場で、各種イベントに参加しました。
閑話:
この課外活動が、今になって、役に立っています。
これは、負け惜しみじゃなく、本音です。
人間、社会生活を送って、歳が30を過ぎれば、この意味が判るようになります。
1、 趣味の良いお洒落。
2、 女性との自然な付き合い。
3、 そして、なによりも、基本的に、群れに流されず、個人で行く先を決めるという意志。但し、一匹狼にはならず、常に本流に身を置く能力。
(これは、サラリーマンには不向きです。“プロのスペシャリスト”か“組織のトップ”に必要不可欠な資質なのです。君は個人行動に耐えられますか?心配・不安になりません?)
途中、話が脇道(社会の本道かな?)にそれましたが、以上のようなわけで、東大の数学科を1975年に無事卒業しました。
ちなみに、卒研は最適制御でした。